STUDIO POOL—BLOG

’15

Jan

17

震災20年とたすきがけ

たすきがけ

1995年1月17日火曜日。
その日は今となっては「虫の知らせ」があったとしか思い様のない日になった。当時自分は独立して4年目、30歳ちょうどの歳でそれまで友人とシェアしていた事務所を離れ、アメリカ村のビルの一室を借り、とても小さな部屋だったが一国一城の主なのだとばかりに鼻息も荒く張り切って日々仕事をしていた頃だった。独りで事務所に寝泊まりしながらの仕事集中型の生活で家に帰るのは週に一度くらいしかないほどだった。仕事と確定申告の準備が重なり、これまで頼ったことのなかった嫁さんに初めて書類の整理を頼み夜中までかかって作業をしたのが震災前日1月16日であった。コセガレはまだ1歳で事務所に連れて来ては作業が捗らないのでその日だけ堺にある嫁さんの実家に預かってもらっていた。夜中までかかった作業のせいで日付が変わり終電もとうになくなっていた。その日の労をねぎらう意味でビルの1階にある馴染みのバーへ二人でちょっと一杯やりに行った。そのバーには店の看板フクロウ「高橋」が居り、動物好きの我々にとってフクロウは話題を含め疲れを忘れる格好の癒しの対象だった。ただ偶然と思えないのはその日、奇しくも「フクロウは地震を予知できるのか!?」という話題をマスターや皆で語ったことだ。今思えば我々に僅かな予知能力が働いていた気もする。その時は当然ながらまさか地震が来るとは思ってはおらず、ほどよく酔った我々は午前3時に店を出てエレベーターで6階の事務所に戻った。疲れと酔いとで我々は直ぐに眠ってしまった。

ドォォォーーーーーーーーーーーーンッッッッッ!!!!!!!!!!! というこれまで経験したことのない衝撃が床から直に寝込みの身体に轟いた。その衝撃で飛び起きるやいなやドガドガドガドガドガドガドガドガドガドガドガドガドガドガ…という地響きがそれはそれは長い長い振動が事務所を揺さぶった。机の上でシェラフで寝ていた嫁さんをかろうじて守る形で立ってはいたものの6階の揺れは左右にも激しく、机にしがみつきながら肩をすくめ首だけをひねり部屋の後方を確認したら棚の本や飾り物が落下し床で砕け散ってく様子が見えた。視覚と聴覚と体感がスローモーションと倍速を重ねたような不思議な体験だった。ドガドガドガという響きと揺れの中で原因を想像した。「ビルの1階にトレーラーがぶつかったのか」「戦争が始まったのか」「このビルは倒壊してしまうのか」と様々な憶測が頭をよぎった。ビルが横倒しになるまで続くかと思った揺れが徐々に鎮まり、テレビをつけ大規模な地震の発生を知る。急いで実家に連絡を入れると堺の方は長く揺れたが皆無事であることを知りホッとした。親兄弟と連絡を取り合い無事を確認し、小刻みに余震が続く中、兎に角事務所を出て先ず自宅へ戻る必要があった。当時、自宅に猫のサスケが居たからである。散らかったままの事務所に鍵をかけ、薄暗い階段を下りてひと気のほとんどないアメリカ村を走り、道路で1台のタクシーを拾った。地震直後の大阪は神戸での大惨事の情報が届いておらず、いつもの様に仕事の車が忙しなく走っていた。運転手さんも大きな地震だった…という話をする程度でそのまま自宅に向かってもらった。

自宅までの景色は一見いつもと変わりない様に見えたが、倒壊こそしていないが傾いた家をいくつも目にした。自宅付近の道路は地割れしている場所が何箇所もあり、ガス管が壊れた様で辺り一面ガスの臭いが漂っていた。大急ぎで自宅のドアを開けて「サスケー!」と呼ぶと同時に我々は驚いた。家の中がグチャグチャになっていたのである。台所の冷蔵庫の扉や食器棚の戸が全開し、割れた食器が床に散乱していた。部屋では壁にくっついていた大きなタンスが部屋の真ん中まで移動していた。もし普段通り嫁さんやコセガレや猫のサスケがそこで寝ていたらと想像し我々は本当にゾッとした。不安にかられながらもサスケの名を呼び続けるとどこからともなく心細い鳴き声でニャ~…とサスケが恐る恐る出てきた。ホッとしながらも余震が割れた食器をカチャカチャ鳴らし、家具や下駄箱をガタガタと揺らすのを感じる度にあの大きな揺れの再来を予感させ、実家に預けているコセガレのことを思うと不安が募るばかりだった。サスケを車に乗せて嫁さんの実家に向かい到着後に互いの無事を喜んではいたが、時間を追う毎に明らかになっていく被災地の状況をテレビの報道で知る度に正直その日は明日からのことを具体的に考えることが出来なかった。堺の方は被害がほとんどなかったことから余震が収まるまではしばらく実家に寝泊まりさせてもらうことになった。寝ている間も余震は続き少しの揺れで何度もハッと目が覚めた。

そして阪神淡路大震災にはひとつ忘れられない思い出がある。嫁さんの実家に泊まることが決まったその日、一昨年に他界した義父が温泉旅館の浴衣の帯の様な一本の紐を持って来た。「カズ、おまえ『たすき掛け』やり方知ってんけ?」と。「え!?知りませんわ…(汗)」と答えると「揺れた時 カイセイ(息子の名)どないして運ぶつもりじゃ。急いで背たろうて両手空けて荷物持たんならんやろ。」と実際の息子を使って口と片手で素早くたすき掛けで背負う訓練を受けた。素早く出来るまで何度もダメ出しをされながら繰り返す内に出来る様になり、実際寝ている最中に比較的大きな余震で目が覚める度に義父から教わった たすき掛けでコセガレを背負って、枕元に用意していた手荷物を両手に持つポーズで揺れが収まるのを待つ…という事が何度もあった。十ヶ月もの間、お腹の中で我が子を育てる母親は生まれる以前に母性が芽生え、育ち、出産後は完全に母親になっているものであるが、父親はそうではない気がする。生まれた我が子を見て初めてなんちゃって父性なるものが芽生え、そこから一年をかけてその父性が育ってゆく。可愛いという思いと、何としてでも守らなければならないという父性の違いがようやく自覚できる様になったタイミングで起こった阪神淡路大震災。自分にとってたすき掛け訓練は父親としての自覚の象徴であり、我々は先人の知恵や工夫の上に生かされているのだと繰り返し思うきっかけになった出来事であった。

何度も言っている話であるが、昭和39年8月生まれの自分は昭和20年の終戦19年後に生まれたのである。敗戦の焼け野原から19年後には新幹線を開通させ、東京オリンピックを開催させる様な国に生まれ育ったのである。阪神淡路大震災から20年という月日が経った。つまり終戦~新幹線開通までの復興の時間を上回る時間が経ったのだ。戦争と天災は勿論違う。今や戦後当時にはなかった原発問題や、当時には気付いていなかったPTSDもある。しかしながら多くのものを失ったにも関わらずそれに負けずに復興を成し遂げた人々の思いの質は同じなのではないか。そして何よりいつの間にか若者にとって我々が先人に成っているという現実がある。過去の失敗を活かしこれから創る、守る未来の為に我々大人は何を伝えどのような姿勢を示すべきなのか。頭がよくないので難しいことは判らない自分に人生の師匠から教わったひとつの教訓がある。「過去への敬意を忘れず、今目の前に居る人や現象に100%の興味を持って接する。」というものである。我はさておき今目の前に居る「人への想い」なのである。一言で言うと「愛」である。不思議なことに師匠からこの教えを初めて享受したのも今から20年前であった。震災で亡くなられた方へのご冥福を祈りつつ、同じ過ちを繰り返さないためにもあらゆる意味で人との接し方をあらためて考える次第である。がんばるで おっちゃん。

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